藤田 東水

藤田東水

本名・藤田正(まさし)、昭和10年~平成9年。
昭和44年1月入会。昭和52~54年の三連覇により第2代目横綱に推挙される。
「東水」は横綱昇進を祝い、和田敬造会長から頂いた釣号である。

西湖、強風・大波の中を津原でアンカー釣り。舟の揺れが激しく、竿掛けは使用不能。普通の人ならアタリはおろか、タナもエサ落ちも分からぬ状態だが、50枚10キロ。「横綱の底力を見せた一日」と評されている。

家業は結婚式場を兼ねた割烹料理店。長じてからは藤田家の本家筋、従兄の藤田保氏(関東へら研会員)が経営するスーパー「丸正ショッピングセンター」の鮮魚部に勤務。昭和46年、JR上尾駅から徒歩5分の場所で「藤田釣具店」を開業し、6年ほど後に同じ上尾のBS通り、上尾市場に近い場所へ移転する。へら鮒中心の店だがキジや赤虫も置いてあった。

宮沢湖、石垣前。藤田さんの釣りは①いかにアタリを長続きさせ②いかに確実にアタリをとるかの2点に集約されよう」とある。食い渋りの中、底釣りに活路を求めて31枚、9.2キロ

当然生活の中心はへら鮒釣り。平日の昼間は店番を奥様に任せて釣りに出掛け、夜は仕事帰りに来店するお客と歓談する。巨人ファンの藤田東水は報知新聞を取っており、子息の藤田裕二氏(マルキユー勤務)は少年時代、釣り欄の竿頭に父の名前を見つける度に「嬉しかった」と云う。

山中湖、高城園の先。藻べら+絹べら+サナギ粉のバラケ、へらキング+藻べら+サナギ粉の食わせで29キロ。ノーフラシは未だ一般化していない時代だった。

佐原・利根水系、山上湖等、野釣りや管理釣り場、釣り堀にも精通するオールラウンダー。
釣りはオーソドックスで、馴染ませて確実に釣るスタイル。深宙の両ダンゴ、ボソッとしたエサの使い方に定評あったが、底釣りにも並外れた腕を持ち、加えて浅ダナやドボンに優れ、ガタガタの底も上手に対応。ジャミ全盛の三島湖も全く苦にしない。横綱になる人は「なんでも出来る」のである。そして、横綱は皆に慕われ大事にされないと取れない。当時は150人を超える大人数の例会だったがポイントを争うことはなく、混雑を避け、空いてる場所を選んで真剣に浮子と向かい合う。周囲の状況に気を配り、釣れない時こそ「どうやって抜け出すか」を考える人であった。掲載写真は全て、昭和55~56年のへら鮒「マーチャンのエサ教室」から。全盛期の釣技を知ることができる。

へら鮒に連載された「マーチャンのエサ教室」から。Oguchi(小口油肥、後のマルキユー)のジャンバー姿。

長年にわたり、マルキューのチーフインストラクターとしても活躍。世紀を超えて愛され続ける人気エサ「バラケマッハ」等の開発に携わる。ヒット商品の誕生の裏には、氏の助言と協力があった。氏の想いは数々のマルキュー製品を通じ釣り人の喜びとともに、今も生き続けている。

それは伝説の釣り師によって作り出された…
1987(昭和62)年に発売されたバラケマッハ。開発に携わったのは、へら釣り界に幾多の伝説を残した藤田東水その人であった。数多くの試作品と、繰り返される試釣の日々その末に、神の手と呼ばれた氏の左手も納得するバラケエサが出来上がった。命名「バラケマッハ」発売から約14年間。その手触りと操作性の良さで、多くの釣り人から愛され続けてきた。マッハには藤田氏の想いとこだわりが今も息づいているに違いない。
(2001年「へら鮒」に掲載されたマルキューの広告記事より)

性格は負けず嫌いでせっかち。釣りの往復の車で助手席に座ると「抜かれたぞ、抜き返せ」、高速の料金所では「あのゲートの方が空いてるぞ」と注文をつける。家庭では厳しい面もあったが、釣りを教える時は極めて親切。そして責任感の強い人であった。逝去ギリギリまで関東へら研および東水倶楽部の例会へ出席し、へら専科の取材に応じる。老境の姿を見せることなく「ベストの状態で世を去った人」と云えよう。

何よりの楽しみは気心知れた友人たちとの麻雀、パチンコ、そしてスナックでのカラオケ。同じ空間を共有した多くの釣り師にとっても、良い思い出となっていることだろう。