和田敬造
昭和35年、関東へら鮒会入会。昭和37~39年の連続優勝により昭和40年、関東へら鮒会初代横綱に推挙される。
関東へら鮒釣研究会三代目会長(昭和51年~平成8年)、関べら中興の祖。和田敬造と云えば「偉大な人」のイメージが先行する。関べら会報11号(昭和39年1月発行)の会員プロフィールにおいても、既に「豊富なキャリア、優れた釣技に相まって、決して人に嫌われることのない円満な人格は、多くの人を其の周囲に集めている」と記されているが、その優れた釣技が如何だったかはあまり語られていない。
釣技
会報12号(昭和39年2月発行)によれば、第2回例会(同年2月20日、横利根川にて開催。参加64名)において5.77㎏でぶっち切り優勝(2着は五味川康成=後の五味川成魚の3.53㎏)。「石田屋の洗場前の比較的高場を攻めて小型ではあったが、文字通り釣りまくり総数140余枚という驚異的な記録を作った。竿は丈5、終始ベタ釣で、時々底を切った程度であった。当りは変則とも言うべきで、ツンでは乗らなかった」とある。そして、此の昭和39年も年間優勝を遂げ、昭和37年から三年連続!見事、横綱昇進を果たす。因みに、石田屋について中島屋の斉藤輝雄さんに伺ったところ「中島屋の隣、現在駐車場となっている場所にあった舟宿」と教えてくださった。
仕掛けなどについても知りたい。和田敬造のスクラップブックにスポーツ新聞で紹介された記事が貼られていて…「小エサ、小バリの和田」として売り出し、昭和39年5月には丹生湖で12~15㎝の小べらを270枚釣ったことが分かる。「山上湖は平地の釣り場の3倍もエサを打つことがコツ」との言葉も記されていた。
さて、日研機関誌「はねうき」の昭和39年第2号にも、釣技を伝える記事が残っている。座談会「私はこうして釣る」、出席は「和田敬造のへら鮒いく山河」冒頭にも登場する相馬甫胤(企画事業部)、佐藤紫舟(審判部)、和田敬造(渉外部)など当時バリバリの若手副部長たち。精進湖における舟を置いての場所取りについて「こんな場合、舟をポイントから突っ放してしまえばいいんですよ」という相馬氏の発言を受け、和田敬造は「横利根でも同じことが言えますね」と正義感を示している。
続いて釣技の話が始まり…「私は道糸にトンボを付けます。これをやる人わりに少ないですよね。普通木綿糸か絹糸でやるでしょう。これは駄目ですね。乾いたら動いちゃう。私は1号か08号のナイロンを結ぶ。これはいいですよ」「道糸は古ければ古い程良いと思うがな。新しいのは油気が有って沈み難い。新品を使う場合は、指先に泥を附けてきゅうきゅうこすって油を落として使う」「二又の事ですがね、大ていの人はシングルの撚戻しを使うでしょ。私は好ましくないと思いますね。片ずらしの場合撚れて地に着く。二又は中で餌同士まとまっちゃう、三ツカンならそういう事はないと思う」と語っている。
かの孤舟が「道糸は古いほど沈んで宜しい」と、古い道糸を継いで使っていたという話を思い出した。なにより、半世紀以上経った今とは、道具に対する考えが異なることが面白い。
エサについても議論があり…和田敬造の「ポッテ(マッシュポテト)は水で練るのが最高ですね」を佐藤氏が「湯で練ったのは割れて落ちやすいが水で練ったのは周囲から溶ける」と受け、「ウチの会の連中は砂糖を入れる」との発言があった後、和田敬造は「砂糖は意味ないんじゃないかな」と語り…砂糖の有効性についての話が弾んだ。現在の「感嘆を何で練るか?」。現地の水か、ミネラルウオーターか、塩水か、コーラか…の話と似ていて、此れも面白い。