西田 一知

 昭和44年、かの東村山の西、立川の北にあたる東大和市の生まれ。最初の魚釣りは小学1年、叔父に連れられての鎌北湖。叔父は釣会に3つ入っていて…その内、勤務先である狭山市の印刷会社の会に小学生でゲスト参加していた。他によく出掛けたのは鳥羽井沼、小林沼美咲園、鳩山の小用沼。当時から江戸川のグラス竿、カーボン竿の兆など自分の道具を揃え、小学5~6年の頃、三島湖の豚小屋でマッシュをエサに釣っていた。

夏休みの日研ジュニア大会も、小平FCなどで2回ほど優勝している。子供の日、八王子のサマーランドFCで行われた大会に家から自転車を1時間漕いで参加し、優勝したこともある。釣り方は共にバラケに一発のサナギ漬。中学に入ってもへら鮒釣りは続け、高校は都立に合格。「お金が掛からない」と喜んだ両親が本格的な釣道具一式を揃えてくれた。ところが高校に入った途端、へら鮒釣りから離れてしまう。バイクの世界へ行ってしまったのである。夢中になったのは、スクーターの50CCエンジンを60~70CCに改造して小型オートバイに載せ、スピードを競うレース。店から勧められて競技会に参戦し、当時の雑誌にも載った。嵌るとトコトン行ってしまう性格である。

へら鮒釣りに戻ったのは、高校を卒業して勤め始めた頃。叔父に誘われて再開し嵌った。19歳で土方釣具の愛水会に入り、20歳の時、釣具店推薦でマルキユーのモニターとなる。当時、愛水会に在籍していた関川康夫氏に教わり、氏を通じてへら専科の出口編集長とも知り合い、同誌の釣行記や対戦物の連載も受け持つこととなった。関川氏の紹介で25歳で関べら入会。入会1年目に4位、2年目に年間優勝。ところが、32歳だった平成13年頃、仕事に専心する必要が生じて一時会から離れる。努力の甲斐あって仕事も軌道に乗り、関べらへ復帰。そして平成21~23年に3連覇して横綱就位。

3連覇中、三名湖で3年連続「年間最高釣果」を叩き出している。深宙の両ダンゴなら負ける気がしなかった。竿は18尺以上。浮子は硬いエサがタナに入って食い頃になるよう、一般より2ランク小さいものを使う。これは日曜の会であるファーストサンデーで「日曜日にダンゴで釣るにはドウスレバ良いか」を考えた成果。小さい浮子で触りを出しながら釣るのが大切で…トップはパイプ、道糸は1号、ハリスは05号60/70㎝、ハリは24尺までグラン6号。数を打ち返し、馴染み際で触らなければ切る。オモリも飛ばしてみる。アタリは肩チク、上げ、揉んでの消し込みなど様々。当時関べらは100人いたため、三名湖と雖も人数が入ると釣れない。「日曜日の延長で年間優勝できた」と云えよう。
 やはり試釣は大切で、3連覇の頃は3日前の日曜から入っていた。三名湖は魚の濃い薄いはあるものの、ロープのため分かりやすい。一番熱心に試釣したのは三島・豊英。安定して釣れるのは底釣りのため、夢中で場所を探した。しかし、試釣を重ねて「本番で真っ青」も少なくない。関べらに入って30年、横綱になって12年だが、本番が試釣より釣れたことは10回もない。人災、水の増減などで魚は移動する。試釣した場所に入って宙なら1時間、底釣りなら30分あたらなければ移動を考えたい。殊に底釣りの場合、前日30分で当たれば、エサを打った翌日の本番は15分で当たるはず。そのためにも、試釣では3カ所は見つけておくようにしている。

 さて、横綱になると例会成績から外れてしまう。正直なところ面白くはない。三連覇した時、横綱になるべきか大いに迷った。お世話になった方に「なかなか出来るチャンスではないから受けた方が良いでしょう」とアドバイスされてお受けした。
 マルキユーのインストラクターに推薦されたのも関べらのおかげ。関べらへの恩返しのつもりで横綱そして会長を務めさせていただいている。「釣らなくては」のプレッシャーから解放されるのは助かるが、12年ほど成績から外れているため「再び戦え」と言われても戦えないかもしれない。横綱制度はなかなか難しいです。