和田 敬造

和田 敬造(大正14年~平成8年)

心血を注いで関東へら鮒釣研究会を育て上げた、最大の功労者である。

風の盆で名高い、富山県八尾(やつお)町出身。昭和33年、浅草へら鮒会入会(昭和44年退会)。

昭和35年、関東へら鮒会入会。昭和37~39年の連続優勝により昭和40年、関東へら鮒会初代横綱に推挙される。昭和51年~平成8年、関東へら鮒会会長。

他に所属した釣会は亀有へら鮒釣遊会(会長)

日本へら鮒釣研究会(相談役)

日研深川支部(相談役)

亀有地区へら鮒釣連合会(顧問)

放流への貢献

昭和39年、日研渉外部の一員(理事長:小林健二郎、渉外部長:山口幸司郎)として漁協と協議を重ね、西湖へ初めての放流(根場から稚魚3万匹)を実施。その後も西湖への放流は継続され、西湖は山上湖の代表となる釣り場に成長。後の全放協(全日本へら鮒放流協議会)および日研の要となる放流事業の礎を築いた。

同年には中島屋の斉藤義雄氏と共に「横利根川における密漁者逮捕」に協力。佐原警察署から表彰を受ける。以後、大掛かりな密漁は影をひそめた。そして昭和57年、故郷である富山県の赤祖父湖などにへら鮒13.5万匹を放流。

釣り場に名を残す

西湖では石切先の突端を愛し…やがて「和田島」と呼ばれるようになった。佐原の揚水用水路を「佐原新堀」と名付けたのも和田敬造。昭和40年には、増田逸魚・相馬甫胤と競争の結果、年間250日の釣行を果たす。

釣り堀への貢献

昭和40年頃、日研「釣り堀相談室」のメンバーとして、綾瀬HC、水元HC、関東HCなど近代的釣り堀の設計および開業に協力。中でも昭和42年開業の関東HCは収容人員380名という大規模なものであった。

日研団体トーナメント優勝

昭和40年の日研団体トーナメントにおいて、浅草支部の主将として活躍。試釣を重ね、作戦に心を砕き、決勝戦で紫水会・亀有・池上を破って浅草に優勝をもたらし、翌41年の浅草へら鮒会創立20周年に花を添えた。

関東へら鮒釣研究会の近代化

昭和40年、関東へら鮒釣研究会の「会則に基づく民主的運営」確立のため奮闘。昭和51年、長期療養が必要となった酒井高次二代目会長の後を受け、会則に依る選挙の結果、三代目会長に選出され就任した。

エサ開発への貢献

和田敬造デザインの青へら、赤へら

増田逸魚の名著「へら鮒三国志」に「携帯用即製ネリ餌(マッシュポテト)の出現は昭和35~36年頃。私の知る釣り人では和田敬造氏が一番早かった」とある。

昭和40年、サナギ加工の会社であった小口油肥株式会社(現マルキユー株式会社)が釣りエサ事業へ進出するにあたっては義侠心を発揮、心からのサポートを行う。昭和42年にサナギ粉、マッシュポテト、オカユ粉、翌43年には配合餌の青へら、赤へらが発売され、釣り人から大好評を得てその後の急成長の原動力となり、同社繁栄の礎を築いた。青へら、赤へらの袋をデザインしたのも和田敬造である。

貢献に感謝する小口油肥が要請した「顧問への就任」は固辞。正義と親切を貫き、一切の私利私欲を排する姿勢は最後まで変わることがなかった。

本業は紳士服専門店

15歳で八尾から上京した後、浅草にあった叔父の洋服店で修業。やがて、亀有駅前に紳士服専門店「マルワ」を開業。奥様がよく店を守り、店員さんに恵まれ、近くにあった日立製作所の工員さん達が顧客となり、大いに繁盛した。