幸田 栄一

幸田栄一

 

昭和34年、茨城県結城郡(筑波流源湖の近く)で生まれる。昭和59年11月藤田東水、石井旭舟の推薦で入会。
昭和61年度東大関位
平成6年度東大関位
平成7年度東大関位
平成10~12年の三連覇により第4代横綱に推挙される。

子供の頃、家の周りでミミズを餌に小魚を釣っていた。へら鮒釣りは学生だった昭和50年代半ば、友人にいきなり山中湖(平野ワンド)へ連れていかれたのが最初。借りた15尺で2枚釣れてしまった。卒業後、家業を継ぐべく実家へ戻る。昭和56年、筑波流源湖誕生。事務所にあったへら鮒誌の広告を見て16尺のカーボン竿を買い、本格的にへら鮒釣りに取り組むこととなる。

昭和57年、23歳で流源湖愛好会に入会。翌58年、五月へら鮒会に入会。成績は…流源湖愛好会は2年目から年間優勝を重ね、五月も2年目に年間優勝。仕事で毎日出掛けていた流源湖で「23歳からの3年間に1千日竿を出した」成果と云えよう。深場浅場と変化に富み、宙も底も釣れる流源湖で連日鍛えたことが大きな力となった。 

「月刊へら」2005年12月号掲載、筑波流源湖例会桟橋。

関東へら鮒釣研究会入会

昭和59年入会の関べらでは平成6~7年に連続優勝、勝負の掛かった平成8年は7位に沈んだが、平成10~12年に3年連続優勝を果たして横綱に推挙された。魚影が今ほど濃くない当時はポイントが大切。殊に底釣りが強かった。それが、魚の増加と共に釣り場が広がる。精進湖の小割、三島湖の三ツ沢など、ロープで並べる場所での釣果上昇が追い風となった。「1~5月は底釣りに負けても構わない。6~10月に両ダンゴの宙で釣って年間トップに立とう」と考え、殊に3年目が掛かった平成12年には5月に20キロ負けていたが、6月例会から優勝を重ねて年間優勝。

関東へら鮒釣研究会平成12年12月会報

釣技

釣技報告で「エサを4袋使いました」と話すため「大きなエサを大きなハリで打ちまくる」と誤解されるが、実際には段差バラケ+マッハ+軽麩の両ダンゴを、魚の大きさに合わせた関スレ6~7号で打っている。ボソ気味のエサをバラケさせることで馴染ませ、狙ったタナで活性ある魚を仕留める。試釣時は竿を14~22尺まで準備し「どの水深まで浮子が同じ動きをするか、竿を伸ばすことで同じエサ同じアタリで釣れるか」を確認する。一投一投、馴染んでからアタルまでの経過も覚えていた。

とはいえ、当時はキツカッタ。釣りに集中すべく余計な時間を排除する。朝食を摂ってしまうと昼にお腹が空くため、朝は食べない。すなわち、前日の夕食から検量まで胃に何も入れず、釣りが終わると5キロ痩せていた。天才でない限り、努力なくして釣れない。平成12年に3年連続優勝が決まった瞬間、正直な気持は「此れで試釣を重ねずに済む。楽になるなあ」。やはり、釣りは趣味として遊びの部分を残しておくことが大切だと思う。

幸田水産4代目

川魚問屋「幸田水産」の4代目。千葉や埼玉の鰻屋へウナギを届け、古河名物・フナの甘露煮の材料となる焼鮒を作り、自家製の佃煮をスーパーへ卸していた。その材料として四国や関西から食用のフナを仕入れていたのが切っ掛けで、釣り堀からフナの引き合いが寄せられ、やがて昭和50年代半ばから石田商店(香川県仲多度郡琴平町)のへら鮒の関東への出荷を手伝うようになる。筑波流源湖へ放したところ「石田の魚はよく釣れる」と評判になり、四国のへら鮒の販路が拡大した。石田商店からの出荷にあたっては8トン車のハンドルを自ら握り、放流後も魚の健康のためのアフターケアを欠かさない。

釣以外の趣味

釣りの他、趣味は茸取り。香茸(コウタケ)、楢茸(ナラタケ)、栗茸(クリタケ)、乳茸(チチタケ)、本占地(シメジ)などを好んで採りに行く。もちろん松茸(マツタケ)も採る。稜線の周り、下に草のないところがポイントで、9月になると富士山の周辺にも生える。河口湖の日赤病院の先、林道を上がった標高1700mに車を停め、2300mまで自力で登る。GPSを持っていないと、車に戻れなくなります。